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洞窟ホームレス株式会社VSFXマルチ商法詐欺

洞窟ホームレス株式会社VSFXマルチ商法詐欺

文章のみの4クルー目の10

プラザ、林太郎さん)
プラザ午後6時半。林太郎さんがロビーで無料のピアノの演奏を聞いている

ヌマさんと話している。
林太郎さん「花田社長が最初は成功者ということだったからね、それに向けて成功法則のゴーストライターになって、本がでるはずだったんだよ」
ヌマさん「成功法則?」
林太郎さん「カーネギー、ジェームズ・アレン、ナポレオン・ヒル、マーフィー、マイヤー、浅見ほほこ、斉藤ひとり、とか読んだことないですか?」
ヌマさん「カーネギーは『生産経営』の授業でも出ましたよね」
林太郎さん「成功法則の本てさ、書いてあることはどの本も同じなんだよ。もともとはスウェーデンボルグとかジェームスアレンってひとのが種本で、そこのパクリだよ。」
ヌマさん「スウェーデンボルグ?」
林太郎さん「スウェーデンボルグはバッハみたいな髪の毛してやせたおっさん。呼吸を止めるとかして霊的な世界とを行ったり来たりしたとかいうの。ジェームスアレンは、イギリスの牧師だね。ただ、ジェームスアレンはイギリス人で当時のイギリスは植民地の犠牲によって豊かだったから、のんきなこと言えてたって感じはあるんだけどね」
ヌマさん「イギリスは、アジアやアフリカの犠牲の上に成り立っている国でしたからね」
林太郎さん「「タカハシさんの言うにはアレンは『金持ちの快楽は貧乏人の泪をもって購われている』のことわざを知らないって。ぼくらの世代があせるのは、最近の成功者の歴史を紹介するとき、子どもの時の写真が、カラー写真だってことだね。」


成功法則の本)
スウェーデンボルグは日本で言えば「谷口雅治」さんとかが、その感じがある。スウェーデンボルグのメッセージの中に「思えば叶う」という 思考が病気をいやすというものがあった。
そのスウェーデンボルグの思想を組んで伝えたのがアメリカのクインビーという牧師。クインビーの時代は、アメリカのゴールドラッシュの時期でまあ、まともな時期ではない。そこのなかで、「病気癒し」を横においちゃって、なんでもかんでも思考の通りになるというような説教をした
その流れが、また3人ぐらい介して、ナポレオンヒルにとつながっていく。

もちろん、クインビーにしても、その亜流のナポレオンヒルにしても自分こそオリジナルと訴えるので、そのルーツがあることは隠し気味。ナポレオンヒルに至っては、自分が「初の」というけど、その前にチャールズ・F・ハアネルの1912年の『ザ・マスター・キー』という類似本もあるし、日本でも1907年実業出版社がそれより前に出版している。
ナポレオンヒルは日本でも「速聴」というシステムを販売している会社が「潜在意識の力」という言葉を多用してひろめているから、知っているひとも多いはず。
ナポレオンヒルは疑問。カーネギーからヘンリーフォードなどの取材を命じられたのが1908年となっていて、そのとき、関連の本では「申しわけありませんが聞いたことないですね。有名なんですか?」「彼はそれほど名が知られていないからな」とあるんだけど、そこに出ている人の名前を見ると、すでに有名人だけ。
ヘンリー・フォードはは1903年6月16日には、11人の投資家と一緒に、T型フォードを1908年に発表して、1909年から1913年にかけて、宣伝のため盛んにT型フォードを自動車レースに出場させてる。1908年に、まったくの無名とは思えない人物。
エジソンはすでに、1877年の時点で 蓄音機の商品化で名声を獲得している。
ロックフェラーもすでに成功してて、1895年に事業から引退してて、1911年まで社長の職に在籍ている状態。
グラハムベルの電話はもうすでに1877年、電話機を日本へ輸出されているほどの商品になっている。
ライト兄弟は1903年12月17日にノースカロライナ州で12馬力のエンジンを搭載した「ライトフライヤー号」で人類で初の飛行機での飛行に成功してんだよ。
セオドア・ルーズベルトも1900年、大統領選の副大統領候補として当選してて、1901年9月大統領マッキンリーの死去(暗殺)に伴い大統領に昇格してる
キング・キャンプ・ジレットは、替刃式T字型安全カミソリで1904年に特許を取得。
ジョージ・イーストマンは1888年9月4日、コダックの商標を取得して、1896年までに100台のコダックのカメラが売れてる。1900年にはブローニーシリーズを発表して、写真を大衆のものとしてるくらい。
本では、その順番で507名を取材してってとしてて「取材したひとの中にはヒルがインタビューした時点では決して有名な成功者でなかった人も多かった」と言ってて、名前の出ている人達はすでに取材時に有名だったひとだけ。
おかしいよね。ただの有名人インタビューじゃない?

また、「20年無報酬」とあるけど、ナポレオンヒルはボブティラーズマガジン社の記者。記者は取材でまわるのはけっこう自由なはずだから無報酬というのも意味不明。20年とあるけど、1919年から1920年の刊行物の「Hill'S Golden Rule」ヒルズゴールデンルール(成功の黄金律)をもう11年後には出版している。おまけにヒルズゴールデンルールには500名以上の成功者たちから集められた資料を元に作られていったとあるから、刊行中の1920年には500名の取材が終わったということ。取材終わってんだよ。「20年無報酬」の20年ってないんだよ。

おまけにそれを依頼したと言うカーネギーに確かめようがない。だって、1919年8月11日にカーネギーは亡くなっているんだよ。不思議でしょ。
そして、1919年4月21日チャールズ・F・ハアネルにナポレオン・ヒルは「Hill'S Golden Rule」を郵送しているから、チャールズ・F・ハアネルの著書も知っている。
まあ、いろんなパクリ合戦があって、いずれ、宗教的な意味合いから「願う」ことにより神を介して叶うというのが基本。

成功法則の本てさ、ちがいは、「だれが書いたか」なんだ。あと、まれに「伝え方」ね。イラストにしたりとかね。
花田社長の作品としてゴーストライターになる話もあったんだけどね、花田社長もああなったら、もう成功者としては出れないでしょ。

成功法則の本てさ、調べてみると、全部で36個のやるべきことがあって、そのなかから7個なり、10個をバランスよくどう選ぶかだよ。そして、継続して行うこと。習慣化するくらいに。で、それだけではないなんかが、ホントのものがあるんだよね。本に書いていないものが。どこにも書いていないものが。だから、本が売れてて、成功者がそれほどいないって現実。


36の秘密)
「その36って?」
林太郎さんはノートを見せて説明した。
はじめに
1┣●決断をする
 しないから、はじまらない
そして、自分のチューニング
2┏●明るい高次な精神性をもつこと
3┣●「ありがとう」感謝と素直な気持ちをもつこと
4┣●掃除をすること
5┣●負ける強さを持つこと
6┣●守られていることを体感すること
7┣●健全な目をもつこと(目を曇らせない)
8┣●暗い低次元な意識から離れること
9┣●暗い低次元な意識に枯らされないこと
10┣●健康
┃ 朝の運動がいいかも
11┣●こころの健康を保つ
┃ いいものを見る
┃ いい姿勢をする
┃ 感謝する「今、あなたは何に感謝していますか」
12┣●良い言葉を使うこと
13┣●親孝行すること
14┣●メンタルブロックの不要な部分を壊す
┃ 感情をコントロールする
┃ (とくに「恐い」などのブレーキ)
┃ 自己制限という一種催眠を解く
15┣●脳の活性
┃ 勉強する

16┣●手を下せる「今」に着目すること

で実際のレース
17┏●目標を鮮明に描く
 目標を持っているひとは案外と少ない。
 一方で、欲しくない姿ばかりを言う。
18┣●いつも、目標を明確に持っていること
19┣●モデルをさがす。
 参考材料として うまくいっているところを取り入れる
 すでに得ているひとをさがす
 こと細かく調査する
 「しなければいけないこと」は成功者のところにある。
 失敗者から得られるのは「するなよ」ということだけである。
20┣●段取りをつけること
21┣●優先順位をつけること
22┣●「いつまで」という期限をつけること
23┣●シビアな計算でつみあげること

24┣●思い切った行動をとる 勢い
 決意を感じられるようなそれなりの行動をする
25┣●書き出すこと
26┣●責任をとること
27┣●代償をはらうこと



そしてメンテナンス
28┣●改善する
 柔軟性をもって「やりかた」を変える
29┣●事実を見ること
30┣●徳積みをすること
31┣●周囲の喜びが報酬になることをわかること
32┣●時間を管理すること
 自分から率先して動く
 計画を立てて、段取る
 優先順位をつけて、処理する
 タイミングをはかる
 休む時間をつくる
33┣●くりかえして習慣化すること

そしてコミュニケーションはベースね
34┣●リーダーシップをとる 他のひとに夢を参加させる
35┣●声を掛けること
36┣●人に会うこと



タカハシさん直近)
タカハシさんはフリーマーケットに出品し生活費を稼いでいた。
その時は、国分町や春日町、立町あたりの仙台の繁華街の女性の住むマンションのゴミから衣類を主にみつけてそれを販売していた。また、郊外のリサイクルショップで100円程度で処分されている衣類から「売れるもの」を見つけてフリマで販売していた。
 もともとは、タカハシさんは仙台が粗大ゴミ無料の時代にこの仕事をはじめた。
 当時は、仙台の郊外の大型店舗に毎週土日にフリマのイベントが催されるほど、フリマが盛んだった時期だ。
粗大ゴミは地区ごとに出す日時が決められていて、それを目当てに市内を回って集めるマニアや業者が居た。粗大ゴミといっても、現実は細分化される。つまり、壷や茶器などのいわゆる骨董品、お宝鑑定団のブリキのおもちゃなどのお宝、古書・和本といった紙もの、電化製品、家具、フリーマーケットで売れそうな新しいもの、それから金属だった。
 ヘルメットをかぶった老人が自転車で金属を集めていた。とくに喜んでいたのは銅で、機械を集積所で壊して金属だけをよりわけていた。「高いんですか?」ときくと「いやー、いくらにもなんねー」と気さくに答える老人だった。特に、熱気があったのは電化製品を集めるひとたちで、それは組織化していて、仙台の南部ではなぐりあいになるほどものの取り合いでトラブルこともあった。その電化製品は買い取る業者がいたらしく、映らないテレビでも最低1000円になると言われていた。ひとによっては月にそれで50万円稼いでいた人間もいた。中国人も多くごみ集積所を回っていて、中国語をきくことができた。彼らはよく自転車でものをひろっては積んで運んでいた。
あるとき、タカハシさんが集積所にあった透明のビニール袋につまったおもちゃに手をかけようとした。すると、そばに座っていた中国人の男性が「それはわたしの」と言った。すぐに「いくらで売る?」と聞いたら、2つ袋を出して「1000円」と言った。そこで、それをタカハシさんは買ったが、その後、ネットで出品したらそれらは10万円になった。後日、別な集積所で同じ中国人にあい「うちにこないか」と言われて、清水沼という住宅地に行ってみたら、そこは使い物にならないようなものばかりが部屋の前に積まれていたが、家族で老人も含めて6人くらいがアパートの1室で暮らしているようだった。
粗大ゴミの集積所には翌日の集積を目安に、前日の昼過ぎからぽつぽつだされていた。昼からそれを目当てにするひとたちは回って歩くために、ゴミの回収の時にはほとんどゴミは減り、かつ、ほんとのゴミだけが残った。逆に町内会では「ゴミあさるな!」の看板や、見張りをたてるところもでてきた。
まれに、骨董的にいいものが集積直前に出されていたが、そうしたものは、ゴミの集積車によってその場でバリバリ壊されていた。「粗大ゴミ場に出される」「粗大ゴミをあさる拾い屋が来る」「もってく」「粗大ゴミを色んなところで再販売」という、妙なシステムで、リサイクルが機能していたのだ。
その後、粗大ゴミが有料化になり、大きなゴミはまだ使えるもの、いいもの、価値のあるものでも、こまかく壊され普通のゴミとして出されるようになった。
タカハシさんは、普通のゴミをあつめ回るようになり、また仙台の三条町の国際センターのゴミ集積所、東北大歯学部の集積所、東北大片平キャンパスのゴミ集積所を「聖地」と呼んでよくそこに、仕入れに行っていた。


ダッチロール
洞窟株式会社の枯渇)
アルファが強制捜査を受けて、間島社長からの入金はまったくストップした。間島社長に出した企画で、実は洞窟株式会社が多額にたてかえていたが、「アルファ」で「必ず採用」されるはすだったマイナスイオン水の事業はどうするのか?きいても間島社長は明確な答えをくれない。間島社長に入金された企画料も返金したあとは、林太郎さんの貯金でなんとかこの洞窟株式会社もすすんできているが、底が見えてきた。
間島社長の仕事が実質とだえてから、林太郎さんは立ちつくしてしまった。
ヌマさんのデリヘルやあとで話すパチンコの失敗についても、かなりの補填をしている。出て行ってばかりだ。「いい勉強になった」と言いつづけていたが、風邪もこじれれば肺炎になる。
とりあえず、「アルファ」が合法であれば、林太郎さんのした仕事の分は返金されてしのぐことはできるようになるのだが、捜査は進まずいっこうに逮捕の噂もない。聞けば、宮城県警に押収された間島社長の会社の書類もダンボールに入ったまま手つかずの状態にあるらしい。
現実としては間島社長はその返金すらも気に止めていないような感じすらあった。「忘れているのか?」というくらいだ。
間島社長のところにも、「アルファ」からの入金が止まっていて、「耐えるのはお互い様」のような価値観をもっているのか、「これをのりきれば、一生こまらないお金ができるんです」みたいなことを繰り返すばかりだった。それは、ずっと前に「クノッソス」で別な幹部が言っていた。ただ、そのとき言っていた時期は「もうとっくにすぎてるじゃん」だった。

林太郎さんは「日暮れて道遠し」と、つぶやきながら、いったいこれからどうしたらいいのか途方に暮れた。まちなかに、電気が起こせる自転車、ハムスター発電機みたいなものがあって、1時間これを漕いでいればお金になるというようなものがあればいいのに、と思った。
間島社長の会社も捜索を受けると、間島社長からのモトさんへの税理関係の支払いも滞っていった。「アルファ」に対しての仕事は捜索後に押し寄せた税務署から本体の役員への対応や、その後の本体の「アルファ」の関連会社の登記簿変更申請のもの原稿をつくるための下準備を頼まれることがあったくらいだ。モトさんは、税務署から「アルファ」幹部来る内容の相談をさせられていた。
林太郎さんが企画を立てるということはなくなった。もともと、間島社長にいくら企画をあげても、いっこうに新規事業はスタートしない。せっかく立てたプランも陳腐化していく。
「アルファ」本体は、だんだん幼稚な言い訳をするようになり、間島社長もなぜか香港や中国に行くことが多くなり、林太郎さんは会う回数も減っていった。

多くの利益を食ってしまった「マイナスイオン発生器」の事業も「アルファ」のほうからも、間島社長のほうからもまったく話にも出なくなっていった。
「アルファ」はその後、癌治療器に食指を動かしたようだった。その治療器は「特定の癌が99%の確率で治るという」ふれこみのもので、「アルファ」が治療器の開発を民間で唯一認められた と会員に案内を出した。その治療を受けるには1人約300万円の費用がかかるが、「アルファ」が無料で提供し、会員治療器の取次ぎを行えるという癌治療器だった。

おそらく、この商品の位置に、マイナスイオンの器械が間島によって花田にプレゼンされるはずだったのだと感じた。


ただ、間島社長に関わっている間に感じた、妙なモヤモヤした気持ちは消えた。映画で、なにか悪いものが登場する前の不穏な音楽。おちつかないような気持ちは、返金や間島社長との距離によって薄くなっていった。
そのかわり、夏休みのプールのあとの、耳にプールの水がつまっているような不快感になっていった。

強制捜査から3ヶ月も過ぎると、洞窟株式会社の収益は、ほとんどリンちゃんの風俗業からのあがりと、タカハシさんとアツシのパソコンのリサイクルだけが収益になった。他の事業はカネを食うだけのものになった。そのころには、洞窟株式会社の経営状況はほとんどの人が気付いていたはずだが、だからといってできることは、「使わないように」するしかない。みんなが出口を探していた。

林太郎さんは泣きたかった。でも、泣いている場合でもなく、「泣きたいのは自分じゃないだれかだ」と自分に言い聞かせていた。うまくいかないときだからこそ、笑顔でいよう、と、林太郎さんは思っていた。ここに、明るい空気をつくるにはどうしたらいいか、そんなことばかりを考えていた。
いつも林太郎が思い出していたのは、『ショーガール』という映画のシーンだ。
ボロボロの生活でなんだったか 精神的打撃を今うけて泣いていたストリップっぽいショーガールが、涙をふくなり
「さ、ショータイムよ!」
と言って、きりっとした顔にするシーンがあった。泣いている暇はない。泣き出したい
そんな気分はいつもあったが、泣いたらくずれちまう。今はひるんでられない。

ヌマさんの枯渇)
ヌマさんはデリヘルの後にパチンコ店の出資に絡んだ。
遠藤に出した「パチンコ店」の企画書を作った、柳川という日本人と、山本という韓国人と林太郎さんと同席し会ったあと、山本に仙台の繁華街にある既存「パチンコ店」の経営に関わらないか?という話がもちかけられた。
最初の話では、そのパチンコ店「パチンコ・エブリディ」の場所は地域開発で3年後にかならず立ち退きになるので、お金が保証されているということと、パチンコ店は表に出ないお金が少なからずあり、どうでもなるということだった。ヌマさんから企画を出してくれればどんどん取り入れるということだった。ただし、「あまり、爪の先を伸ばさない(欲を出さない)」人ならばということだった。
ところが、出資の日が近づくにつれ、話はだんだんずれていき、契約はそこのパチンコ店の韓国人オーナーとの契約ではなく、そこに入った山本の新設したコンサル会社との契約になった。
計画では「パチンコ・エブリディ」の売り上げは、月に1億5000万円の数字だった。出資を現在のオーナーが4000万円、韓国人のコンサル会社が4000万円を調達し、計8000万円に対し売り上げの4%を配当するというものだった。ヌマさんは250万円を出資したので、0.125%の配当になる。計画では月に1億5000万円の数字だったので、月に18万7500円の収入が立つはずだった。
3年契約で、閉店の際は、初年度は90%、翌年は70%、3年目は50%を柳川が返済するという条件もつけた。3年契約なので、再開発の時期に50%は戻る。
ところが、「パチンコ・エブリディ」は、グランドオープンから配当の始まる2ケ月目はまだ4000万円あったが、ここから下降をつづけ、6ケ月で絶望的な売り上げとなった。
資金を投入する前には最低のときでも月間3000万円の売り上げがあるという説明だった。売り上げ3000万円だとすれば、0.125%で3年間で135万円になり、250万円の半額の125万が戻って、260万円。10万円の利益になり、なんとか元金は帰る計算になる。
実は、ヌマさんはその話を知り合いにもまわしていて、もうひとりが250万円。もうひとりが500万円と、ヌマさん関係で1000万円が出ている。いつも、ヌマさんが現金授受の柳川との窓口になっていた。

ところが、月に最低でも3000万円は確実ということだったのに、売り上げは1000万円に、つまり1万2500円の戻りまで下降した。「最低のときでも月間3000万円」というのは嘘ではなかったのか?と疑った。これでは、0.125%で3年間で45万円になり、250万円の半額の125万が戻って、170万円。つまりは80万円の損失になる計算になる。

「パチンコ・エブリディ」のグランドオープンが4月だった。配当の初月にはヌマさんは4万円を受け取ったが、もはや4ケ月目には1万円代になっていて、次第に、毎月のその少ない支払いのための会合ですらも、期日が守られなくなっていった。それでも、ヌマさんは企画書をせっせと書いて柳川に郵送していた。

グランドオープンから1年の間に、その店は表向き3回店名を変えたが、客数は増えず、毎月の報告すらもなくなった。支払いが2ケ月滞っていた。
グランドオープンから1年後、山本のコンサル会社との中に立って支払いをしていた柳川がこう言った。
柳川「悪い話です」
ヌマさん「え?」
柳川「パチンコ・エブリディが不渡りを出しました」
ヌマさん「え?え?え?。山本さんは、どうするつもりなんですか?」
柳川「山本さんとパチンコ・エブリディはもう話できる状況じゃないですよ」
ヌマさん「え、いつから話ができないんですか?」
柳川「もう、昨年の12月からですね」
ヌマさん「え、でも、売り上げのデータ出ていたじゃないですか?」
柳川「あれは、まだ私はパチンコ・エブリディと関係が築かれてたので、月末に行って、もらっていたんです。パチンコ・エブリディからの配当も今年に入ってから出ていませんよ」
ヌマさん「え、もう半年もないんですか?なぜですか?山本さんの仕事の相殺ですか?」
柳川「いえ、『お金がないから払えない』っていうんです」
ヌマさん「山本さんがですか?」
柳川「いえ、パチンコ・エブリディが」
ヌマさん「で、山本さんとの契約なのですから、山本さんからはお金はもらえるのですよね」
柳川「山本さんも、『お金がないから払えない』っていうんです」
ヌマさん「それって、無責任じゃないですか?」
柳川「この半年は、わたしが、みなさんへの支払いを肩代わりしていました。でも、わたしも、もう破産宣告しようと思っているんです。離婚もします」
ヌマさん「え、柳川さん自身の会社は?」
柳川「いえ、自分の会社の保証人にもなっていますから、結果個人にくるじゃないですか?だからもう夜逃げ状態で、金融関係の電話には出ていないんです。ヌマさんだから出ているんですよ」
ヌマさん「パチンコ・エブリディは閉まっているんですか?」
柳川「閉店時間に行くとわかりますけど、閉店時間には不良(やくざ)が来ていますよ」
ヌマさん「だって、売り上げの%って話だったじゃないですか?」
柳川「いや、山本さんはもうこのファンドは崩壊しているんだから、もうパチンコ・エブリディが払ってこなくなった時点で。払う必要はないと思ってますよ」
ヌマさん「え、私、知り合いにも紹介しているんですよ」
柳川「それは、山本さんに言ってください」
ヌマさん「パチンコ・エブリディに話しにいってもいいですか?」
柳川「パチンコ・エブリディは山本さんと話してくれというと思いますよ。というか、出てこないと思います」

「お金をもっていないひとって、なんでもありなんだ」と唖然とした。
こんなことを想定した契約書もかわしていない。
『お金がないから払えない』っていえば、それですんじゃうんだ…

もともと、ヌマさんがやっている(そして失敗している)事業は、パチンコも風俗店(デリヘル)もともと遠藤がやりたいといって、林太郎さんたちが調べているうちに、かかわりあった人たちによって組まれた仕事だ。
(へんなひとと関わらせることになってしまったな、ヌマさん悪いな)と、林太郎さんは思っていた。

あぶないやつら、困ったちゃん>

未来の展望がないのがつらい)

この時期のつらさは、「未来の展望がない」のがつらいということだったと思う。
これは今のいきづまった中高年には共通する思考だと思う。

とりあえず、工事現場でも、清掃でも、介護でも、働くことは今は出来る。
しかし、未来の展望がどうなのか?だ。
腰を痛めたらどうなるのか?膝が痛くなってきたときに、そこに「未来の展望」はあるのだろうか?

未来になんの心配もない政治家がテレビで話している言葉は、「よくわからなかった」。


リョウさんのバカンス)

リョウさんは対岸でのんびりしていた。
海の砂みたいなベースで寝転んでいた。
チョーク石をひろってコハルにあげていた。
コハルは洞窟に落書きしていた。
郷土史家の息子さんと知り合いになった。

ヌマさんのためいき)
ここからは、ヌマさんはためいきをついていた。
コハルが言った。
「生まれた時は、いいこともわるいことも ざるに水をいれるようにざーざーながしているんだって。こだわらないでしょ、あかちゃんは。でも、だんだん、生きていくと、 いいことのほうは、流してしまうのに、 わるいことだけ「反芻(はんすう)」する」
「なんどもなんどもいやなことを数えて ためこんでいくようになる。そしたら、ざるの目がつまっちゃう。いやなことだけじゃないのに、 いいことは 感謝しないで、 わるいことばかり、なんどもなんども 数えてしまう。」
「ヌマさん、ヌマさんのわるいほうのざるの目はつまって、わるいことばかりたぷたぷになるよ。ためかたは知っているんだよ。しあわせのためかたも同じなのに、 それを、わるいほうでやってしまってるんだよ、ヌマさん。いいことをかぞえようよ」

それをメモっていたのはそばで聞いていたリョウさんだった。

ヌマさんのバカンス)
ヌマさんのつり仲間、ズイ道の4本の出口から釣りをしていた。
ヌマさんがイシグロさん、イシグロさん、というので、その仲
間の名前かと思ったが、虫の名前で釣りのえさになるらしい。
かわらでつりをしていたときに知り合ったそのひとは、仲間内
では「イシグロさん」と呼ばれた。**法人会の会員のかたで
朝早くの異業種交流会をしていた。
ヌマさんも、それに参加するときは洞窟に泊まった。

左の自転車はリンちゃんと林太郎さん
川辺で寝ているのがリョウさん
ツリしているのがヌマさん(話しているのが異業種交 流会のひとイシグロさん)
洞窟改造しているのがタカハシさん
箱の部分にいるのがコハル

右上で東北工大で話 を聞くのは結局やんなかった

<夏休み状態の洞窟株式会社>

ヌマさんが東京で自己啓発の研修を受けてきた)
あれが、あの「ヌマさんか!?」
という感じだったけど、2週間たつと、やっぱり「ヌマさん」だった。
もとに戻った。
これはそのときのヌマさんの言葉を、リョウさんがメモしたもの




洞窟の周り、鳥、草)

鳥の声はさまざま聞こえた。
これが、「食べることができる!」ということになれば仙台市の科学館に行ってその泣き声の主を、そして捕まえかたを調べたと思うが、食べることは考えなかったので、泣き声だけでしかまだ知しらない。

ぴこぴこぴこー
ほーほけきょ(「テッペンカケタカ」のウグイス?、ホトトギス??)
カーカー、アーアーというからす
キーキー キッキーキー
ピッピピ、ピーピーピー

鳥の泣き声から、鳥の名前を割り出して名前を書いても、その名前から逆に鳴き声を想像できる人は少ないだろう。オシドリ、ウミネコも飛んできた。


空に鳶が回転して時折姿を見せた。風。

河原まで歩くと、草の匂いを感じた。
茂みを歩くと、すずめがいっせいにとびたち、小さな蝶や蛾がときどき飛ぶ
ベニシジミだろうか?虫が歩く。蟻の巣。

白い5弁のノバラ、6月の真っ赤な「ヘビイチゴ」の実、橙のすじこみたいなニガイチゴに気をとられていると、アオダイショウ(蛇)が出てきた。
季節の流れを名前を調べていない花の移り変わりわかった。

樹木からは虫や枯れた葉が、視界に「ひとつ、またひとつ」と、落ちてくる。


蚊が6月にはいると出てきた。

川に産まれたおたまじゃくし。


リョウさんがのちに知り合う広瀬川の写真を8年間掲載しつづけているK氏と歩いていれば、名前もすぐわかるだろう。



時間はあっというまに過ぎたり、まったく進まなかったりした。




リンちゃんの風俗の売り上げ)

リンちゃんは風俗の売り上げを全額、毎日(日払い)で入れはじめた。お金の管理はコハルがやっていた。
間も無く、林太郎さんは、「リンちゃんの売り上げを全額入れるとというのは困る」と言った。すると、リンちゃんは「自分はきちんと貯蓄もしているし、ここでみんなが夢に向かっているってことが『一緒に戦っている』ことなんだよ」と、聞いているときは納得するが、あとで考えるとわからない論理でカネを入れ続けた。
『一緒に戦っている』という言葉を何度も出していた。それを拒否することはリンちゃんを拒否する意味になるようなそんないきおいがある言葉だった。

怒っているリンちゃん)
「結局、ここにいるのはホームレスと、おたくと、ヒッキーと、拾い屋と、風俗嬢と、ジゴロ崩れじゃない!負けたままでいいわけ!!!」

末無し横丁の計画図)
林太郎さんが以前中央通りに車両が入らないようにするための計画図を描く仕事をしていた。中央通りで車を暴走させ殺傷するという事件が2度つづいたからだ。
仙台での暴走事件は2005年4月一回目、車が進入し人が亡くなったことで、市が径1m程度の、木が一本植えられた巨大植木鉢をアーケード入り口に2つ置いた。「気やすめだよね」と言われていたが、2005年12月二回目の模倣犯の暴走で、植木鉢の無駄さが実証されて予算が付いて、地中に引っ込められるタイプの車止めが設置された。しかし、最初は出したり引っ込めたりしていたが面倒になったらしく出しっぱなしになった。

同じような殺傷事件、秋葉の事件について林太郎さんとタカハシさんが話していた
2008年8月8日、携帯電話サイト上に残された書き込み。加藤容疑者が残したものかは不明だが、注目を集めていた。「車でつっこんで」というのは、仙台の事件の模倣だ。
 午前5時21分 秋葉原で人を殺します 車でつっこんで、車が使えなくなったらナイフを使います みんなさようなら
 午前5時21分 ねむい
 午前5時34分 頭痛が治らなかった
 午前5時35分 しかも、予報が雨 最悪
 午前5時44分 途中で捕まるのが一番しょぼいパターンかな
 午前6時00分 俺が騙されてるんじゃない 俺が騙してるのか
 午前6時2分 いい人を演じるのには慣れてる みんな簡単に騙される
 午前6時3分 大人には評判の良い子だった 大人には
 午前6時3分 友達は、できないよね
 午前6時4分 ほんの数人、こんな俺に長いことつきあってくれてた奴らがいる
 午前6時5分 全員一斉送信でメールをくれる そのメンバーの中にまだ入っていることが、少し嬉しかった
 午前6時10分 使う予定の道路が封鎖中とか やっぱり、全てが俺の邪魔をする
 午前6時31分 時間だ 出かけよう
 午前6時39分 頭痛との闘いになりそうだ
 午前6時49分 雨とも
 午前6時50分 時間とも
 午前7時30分 これは酷い雨 全部完璧に準備したのに
 午前7時47分 まあいいや 規模が小さくても、雨天決行
 午前9時41分 晴れればいいな
 午前9時48分 神奈川入って休憩 いまのとこ順調かな
 午前10時53分 酷い渋滞 時間までに着くかしら
 午前11時7分 渋谷ひどい
 午前11時17分 こっちは晴れてるね
 午前11時45分 秋葉原ついた
 午前11時45分 今日は歩行者天国の日だよね?
 午後0時10分 時間です
                     ◇
 午後1時過ぎから、「今 ニュースで秋葉原で警察官刺したって」「マジか?」「まさか…ガチ?」
 など、他の書き込みが相次いだ。

林太郎さん「あの、犯人の加藤って、仙台に居たんでしょ。」
タカハシさん「テレビみましたけど、あれツタヤですね。ツタヤの上にある派遣の会社ですよね」
林太郎さん「あー、あれツタヤか、どこかで見たなーと思ったけど、昔、リビング新聞あったとこね」

タカハシさん「秋葉原事件の加藤。社会が悪い、世間が悪いとかいうの、ならばだ、、、その原因のほうに矛先を向けるべきではないか?と思いますよ。政府の重鎮には『社会が悪い、世間が悪い』の責任あるかもしれないですけど、秋葉原のほこてんを歩くひとに、どれだけその責務があったと思いますよ。。人材派遣の会社も扱いがいろいろらしいですよね。会社はもうかっているんですけどね。現場は大変ですよ。」
林太郎さん「加藤も、無差別と言うけれど、けっこう、偏った チョイスの上で刃物を振り回していると思う」
コハル 「えー、無差別でしょ」
林太郎さん「いや、やりやすいのを ねらったってことだと思う。だれでもよかった  ではなく」
タカハシさん「そう、その時点で同情からはずれるね。これが、劣悪な労働環境を提供していた会社の重役にっていうならまた違うんだとは思うけど」
林太郎さん「ちょっと、あぶない話ですね。手を握る相手を刺したって感じがします。手をつないでいく相手を殺したって感じがします」
リョウさん「ネットじゃなくてや、ここさに来てたら、そうはならなかったべな」
林太郎さん「顔、見えますからね」

ネットと対面のどちらがいいかはそれぞれのメリットデメリットがあるのだろうが、対面であれば感情や事実のくいちがいをリアルタイムで修正できると思う。

※ 仙台市のアーケード街で暴走したトラックに3人が殺害された事件(2005年4月2日)。2005年12月25日午後6時50分にも暴走。秋葉原の加藤は 仙台市内の人材派遣会社によると、契約社員として03年後半から05年初めまで、工事現場で通行する車両を誘導する仕事に就いていた。 ..



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